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真言宗成田山国分寺の仙台僧侶派遣

宗派の歴史と教え

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日本の仏教各宗派の歴史と教え

天台宗の歴史

 日本の天台宗の開祖最澄は成田山国分寺の宗派でもある真言宗の開祖空海と同時に遣唐使船で入唐しました。天台宗の宗名のルーツは浙江省天台県にある天台山にあります。中国の隋代に天台宗を開いた天台大師智は、天台山を修行の地に定め根本道場を開いたため、天台大師と呼ばれ、またその系譜を天台宗と呼ぶようになりました。わが国に天台宗をひらいた伝教大師最澄も中国に留学中に天台山で修行しています。最澄は、天平神護二年(766)近江国に生まれました。長じて、当時のさまざまな仏教を学び修行した最澄はやがて天台大師の教えに出会い、なんとしても中国に渡り天台宗の極意を学ばなければならないと決意、留学を果たします。そして、中国で研鑽を重ねた後、多くの仏経典籍とともに帰国し、日本に天台宗を開くのです。開宗は、延暦二十五年(806)一月二十六日とされています。その後、慈覚大師円仁・智証大師円珍・五大院尊者安然・慈慧大師良源・恵心僧都源信・慈眼大師天海らの名僧によって天台宗は発展を遂げることになります。

天台宗の教え

 「妙法蓮華経(法華経)」こそ、仏陀の教えの究極を説いたものとします。この法華経を中心に、菩薩戒・顕教・密教・禅法などを融合した総合仏教といえます。これを「四宗相承ししゅうそうじょう」と言い、円・密・禅・戒、そして念仏を法華経の精神で統合していこうというものです。そして、すべての人、生物、存在には仏になる可能性があると教えています。天台宗の宗憲には「天台宗は宗祖大師立教開示の本義に基いて、円教、密教、禅法、戒法、念仏等いずれも法華一乗の教意をもって融合しこれを実践する。」とあります。

浄土宗の歴史

 浄土宗の宗祖である法然は、長承二年(1133)美作国に生まれました。幼くして父を失った法然は父の遺言にしたがって仏の道を志します。叔父の観覚のもとで仏教を学んだ後、比叡山東塔西谷功徳院の皇円のもとで出家します。しかし、当時の比叡山は僧侶達が権力闘争に明け暮れる状況にありました。そこで法然は、比叡山のなかでも真摯に仏道を求める僧侶が集う西塔の黒谷別所で慈眼房叡空に入門します。それから二十五年間、救いの道を求めて苦悶しながら、ひたすら仏道を追い求めます。そしてついに四十三歳のとき、善導大師の「一心に阿弥陀仏の名をたたえて念仏を唱えれば極楽往生できる」という教えに触れ、浄土宗を開宗します。「念仏を唱えれば救われる」というこの教えはすぐに広まりました。ところが既成の宗派から「仏教の伝統を否定するもの」として弾圧を受け、讃岐に流罪になります。後に許されて京都へ戻り、現在の知恩院の地で八十歳の生涯を閉じます。弟子達によって浄土宗は法然の死後、さらに広まってゆきました。

浄土宗の教え

 阿弥陀如来が西方十万億土のかなたにつくられた、浄らかな極楽浄土に往生することを説くのが浄土宗の教えです。往生した極楽浄土で阿弥陀如来の説法を聞いて仏になるのです。阿弥陀如来の救いを信じて「南無阿弥陀仏」と唱えることが極楽浄土に往生するために大切だと、法然上人は教えています。南無阿弥陀仏を唱えて阿弥陀如来の救いを信じていれば、身も心も清らかになり、心豊かな人生を送り、死後浄土に生まれて仏になることができるのです。浄土宗の教えは、浄土に生まれれば、いつまでも浄土に居られるのですが、仏さまとしてこの世に帰ってきて、救われない人々を救済することもできるということです。

浄土真宗本願寺派・真宗大谷派の歴史

 承安三年(1173)、親鸞は京都に生まれ九歳で得度しました。その後二十年間にわたり比叡山で修行を続けますが、やがて比叡山の仏教に絶望し浄土宗の開祖法然を訪ねます。そこで専修念仏の教えにたいへん感銘し、法然のところに入門します。しかし、念仏禁止令が発布され、越後に流罪。流罪先で結婚した親鸞は非僧非俗の境地をひらき自らを「愚禿親鸞ぐとくしんらん」と名乗ります。流罪が許された後、妻子を伴って関東で布教を始めます。そして元仁元年(1224)浄土真宗の根本聖典になる「教行心証きょうぎょうしんしょう」を執筆、この年が立教開宗の年とされています。晩年は家族とともに京都へ帰り、九十歳で往生するまで、盛んに執筆活動を行い、同時に関東の弟子達へ手紙で指導を続けました。親鸞の死後、教団は次第に衰微してゆきますが、第八世蓮如によって再興をはたします。そして、巨大教団へと発展したため、他宗派や大名からの弾圧がはじまります。織田信長の本願寺攻略をはじめとし、時の権力者に翻弄され西本願寺と東本願寺にわかれますが、宗勢は衰えることなく、現在に至ります。

浄土真宗・真宗の教え

 仏さまになるには、修行によって煩悩を断ち切り、善根を積むことが必要である、とされてきました。しかし、今の私達にとって、それを毎日続けてゆくのは非常に難しいことなのではないでしょうか。そこで、阿弥陀如来は私達のような者を救おうと誓い、浄土を建立したのです。この、阿弥陀如来の建立した浄土に生まれる道を説くのが浄土真宗・真宗の教えです。阿弥陀如来は私達のような者こそを、救いの対象にしているのだと説いているのです。また浄土真宗・真宗では「阿弥陀如来に帰依すると決めた時点で、誰でも仏になることが約束される」としています。ですから、阿弥陀如来に帰依した後の念仏は仏になるために唱えるのではなく、仏になれた感謝の表現として唱えるものなのです。自分の修行などによって極楽浄土へ往生しようとする「自力念仏」ではなく、阿弥陀如来を信じ感謝の心とともに唱える「他力念仏」が浄土真宗・真宗の念仏なのです。

臨済宗の歴史

 弟子が師匠から法を受け継ぐことを、特に禅宗では重視します。それは、仏教開祖のお釈迦さまの悟りを引き継いでいる、ということを大切にするからなのです。禅宗はお釈迦さまから二十八代目にあたる菩提達磨によって中国へ伝えられました。そして、達磨から六代目の六祖慧能、さらに慧能から五代目の臨済義玄に法が引き継がれ、中国に臨済宗が開かれました。日本に臨済宗をもたらした明庵栄西や、円爾弁円は中国へ渡ってこの流れを引き継いだのです。さらに、中国から帰化した蘭渓道隆や無学祖元なども日本へ臨済宗を伝えました。室町時代には武家の帰依をうけた夢窓疎石らによって臨済宗は発展を遂げ、建築や水墨画、文学などの禅文化が花開きます。また大応国師、大燈国師、関山慧玄によって「応燈関の法灯」と呼ばれる系譜も形成されます。そして、江戸時代中期に白隠慧鶴によって現在に直接つながる臨済宗の教義が完成したのです。

臨済宗の教え

 臨済宗の教えは、人間が生まれながらに、だれもがそなえている厳粛で純粋な人間性をみずから悟ることによって、仏と寸分も違わぬ人間の尊さを把握するところにあります。もちろん禅宗ですから、座禅を最も重視します。臨済宗の禅は「看話禅かんなぜん」と呼ばれ、師匠が「公案」という問題を出します。弟子はこれを頭だけで理論的に考えるのではなく、身体全体で、理論を越えたところに答えを見いだします。そして、この結果を検証するのが参禅です。師匠と二人きりで対面した弟子が、見解を提示し、これを師匠が確かめるのです。

曹洞宗の歴史

 八世紀初め頃の中国の禅僧である洞山良价の「洞」と、その弟子である曹山本寂の「曹」をとって「曹洞」としたのが、曹洞宗の名の由来だと言われています。わが国に曹洞宗を開いた道元は、正治二年(1200)内大臣久我通親の子として京に生まれました。幼くして両親を失った道元は、十三歳の時に比叡山に上り、天台教学を学びます。しかし天台宗に疑問を抱き、十八歳で建仁寺に栄西を訪ねます。そして貞応二年(1223)に中国に渡り、如浄を師として曹洞禅を学びました。身心脱落の境地を得て帰国した道元は、宇治に興聖寺を開きます。その後、越前に移り永平寺を建て、自らの理想とする正伝の仏法の提唱と弟子の養成につとめました。道元から四代目にあたる瑩山は、多くの優れた弟子を養成しながら大衆教化にもつとめ、現在、日本最大の寺院数を誇る曹洞宗の素地をつくりました。曹洞宗では道元を宗派の父、瑩山を母にたとえ、両祖と仰いでいます。

曹洞宗の教え

 曹洞宗の修行の基本は座禅です。修行は座禅だけには限りませんが、ただひたすらに座禅を行うこと(只管打座しかんたざ)を最も重要に考えます。そして、座禅の心とすがたで、日常生活を生きてゆく(即心是仏そくしんぜぶつ)ことを説きます。座禅の力は、必ず個人生活。社会生活に現れてきます。つまり座禅と日常生活は一つ(禅戒一如ぜんかいいちにょ)なのです。ですから日常生活を大切にして、今、ここで生きているかけがいのない命を事実のままに生きることこそが、修行であり、この自己の修行がそのまま仏の行であると教えています。

日蓮宗の歴史

 日蓮は貞応元年(1222)安房国(千葉県)に生まれ、十二歳で天台宗清澄寺に入り、十六歳で得度します。二十一歳のときに比叡山に上ると膨大な書物を読破しまがら、教えを求めて園城寺、高野山などへも訪れます。そうした修行研鑽を十一年間続け、ついに、「お釈迦さまの最高の教えである「法華経」こそが、救いのよりどころとなる唯一の経典である」という確信を得ました。清澄寺に戻った日蓮は、建長五年(1253)清澄山頂に登って「名無法蓮華教」の題目を高唱し、立教を宣言します。その後、「法華経を広めようとする行者は難にあう」という法華経自体に書かれている予言通り、「松葉谷の法難」「小松原の法難」など数々の難に遭い、死の危険にされされることになります。「社会に天災や疫病などが続くのは邪法・悪法がはびこっているからだ。法華経信仰によって国土の安穏をはからなければならない」と説いた「立正安国論」を執権北条時頼に提出すると、その内容を幕府に危険視され伊豆に流罪(伊豆の法難)さらに「龍の口の法難」では惨殺寸前となりますが稲妻によって奇跡的に逃れ、佐渡に流罪となります。文永十一年(1274)ようやく許された日蓮は身延山に入り、六十一歳で生涯を閉じるまで著作と後進の育成につとめたのです。

日蓮宗の教え

 主だった日本仏教各派の中で宗祖の名前を冠して宗派名にしているのは日蓮宗だけです。それだけ、宗祖日蓮上人の存在意義が教義に大きく反映しているのでしょう。日蓮宗ではお釈迦さまの説かれた教えの中でも「法華経」こそが、世の中を救う絶対最高の教えであるとします。その法華経を説かれた、実際に歴史上に存在されたお釈迦さまは「久遠実成くおんじつじょうの本尊」が自信を表した姿です。久遠実成の本尊とは、永遠の昔に悟りを開いた仏さまという意味で、法華経も、本仏が経典として、実態を示したものなのです。法華経を日本に広宣流布した日蓮上人の説教を通して法華経を理解し、実践してゆくのが日蓮宗です。法華経は本仏の声そのものであり、法華経の功徳すべてが「南無妙法蓮華経」の七文字にこめられていると日蓮上人は考えました。そこで「法華経の内容をすべて信じ帰依する」という意味の「南無妙法蓮華経」を唱えることを、何よりも重要な修行としています。

真言宗の歴史

 七世紀中頃のインドで、当時衰退の傾向にあった仏教の復興運動がおきました。この運動によって密教が盛んになり、西インドで「大日経」が、南インドで「金剛経」が成立します。「大日経」は善無畏三蔵によって陸路で、「金剛経」は金剛智三蔵によって海路で中国に伝えられました。中国に伝わった密教は、初めこの二派に分かれていましたが、空海の師匠である恵果和尚によって統一されます。弘法大師空海は宝亀五年(774)讃岐国に生まれ、十五歳で都にのぼり、仏教をはじめさまざまな学問を学び、各地の山野で修行しました。そして密教の実践を学ぶために中国へ留学、恵果に入門します。恵果は空海に会うなり「私はあなたが来るのを待っていました。すぐに密教の奥義を伝えましょう。」と言ったそうです。つまり恵果は千人を越える弟子の中から、正当な密教の継承者として空海を選んだのです。空海は帰国後、全国行脚を経て真言宗を開きます。真言宗は興教大師覚鑁が高野山座主の時に古義と新義に分かれ、その後さらに分化し多くの派が生まれてゆきます。真言宗成田山国分寺は智山派です。弘法大師空海と興教大師覚鑁については空海の生涯で詳細に説明しています。

真言宗の教え

 真言宗は真言密教ともいい、「即身成仏」を教えの根幹にしています。これは密教の修行の実践により、誰でもただちに仏になることができるという教えです。密教の修行とは、身体の修行である身密、言葉の修行である口密、心の修行である意密で、あわせて身口意の三密修行と呼ばれています。真言宗成田山国分寺でも焼香の際に、三回香を入れるのは三密と関わりがあるのです。

仙台僧侶派遣(葬儀読経)に関するお問合せ・お申込は下記にて承ります。

真言宗成田山国分寺
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電話番号 :022-225-8640(修養日を除き9:30から17:30まで)
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